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被災地で設計した建物は150棟に。岩手と神奈川で二拠点生活の建築家

坪谷和彦さんは、横浜市で一級建築士事務所「TsuboYa」を主宰する建築家。

2011年11月、岩手県大槌町の水産加工場の再建を依頼されたことから、横浜と大槌町を行ったり来たりする二拠点生活が始まりました。
東日本大震災の年から復興に携わって8年が経ち、設計した建物はなんと150棟。そんな坪谷さんの大槌町での活動と暮らしを取材しました。

妻子は横浜に。単身、岩手県大槌町に暮らすように

建築家の坪谷さんは、東日本大震災の8か月後、甚大な被害を受けた岩手県大槌町にある水産加工場の設計を依頼されます。
横浜で一級建築士事務所「TsuboYa」を独立開業して5年目のこと。自ら設計した自宅も完成していました。

そんな背景があった坪谷さんですが、縁もゆかりもなかったこの土地に、結果妻子を横浜に残したまま8年間も関わることに。

二拠点を行ったり来たりしていますが、1年のうち約300日大槌町で暮らしています。こんな生活になるとは、当初は夢にも思わなかったといいます。

口伝えで増える仕事。腰を据えて暮らす覚悟

水産加工場の仕事を始めた頃は横浜から通っていました。しかし、震災後は道路も壊滅状態で、横浜に帰る最終の新幹線に乗るには、大槌町を17時30分に出なければなりません。

行き来に時間がかかるし、「設計を頼んでくれる人と一緒にご飯を食べたりお酒を飲んだりする時間が取れなければ、その人の暮らしを本当に知ることができない」と感じていた坪谷さんは、翌年には掘立小屋を借りてこの地に寝泊りするようになったのです。

口伝えで仕事がどんどん増える状況にもなっていました。
そして次の年には自身が設計したアパートの一室を住居兼事務所に。この町に腰を据える覚悟を決めたのです。

帰りたい気持ちを留めたのは人との結びつき

事務所の本拠地は横浜に置いたまま。関東の仕事はスタッフの手を借りてこなしていました。
こうした暮らしで、やはり気がかりなのは家族のこと。
横浜に残した妻は坪谷さんを支え続けてくれていましたが、寂しさは表情に出ていました。震災の年に小学1年生だった娘も、年に何度も会えないまま高校生に。

何度も横浜に帰りたいと思い、大槌町で親しくなった友人に相談したこともあったそうです。そんな坪谷さんをこの地にとどめたのは、人との結びつきでした。

坪谷さんは地域の活動も積極的に参加しています。
復興のための補助金申請を手伝った縁で、復興のためのイベントを開催する「はまぎく若旦那会」に入会。

また、食を切り口とした街づくり活動を行う一般社団法「COLERE(コレレ)」の理事もこなしています。様々な人との関わり合いを大切にした結果、坪谷さんは大槌になくてはならない存在となっていったのです。

この町で設計した建物は150棟にも!

こうして8年、坪谷さんがこの町で設計した建物は150棟に上ります。一般の住宅から、カフェなどの店舗や事務所、工場、民宿、こども園まで様々。

生活の拠点を失った人々にとって、待ち望んでいたスペシャリストだったのでしょう。「建築家がその人だけのために考え、職人が腕を振るってつくる家の質感や温もりを求める人が多かったからなのではないでしょうか」(坪谷さん)

復興が始まるとすぐに、横浜から建築家が来たという噂が、町内はもとより隣の釜石市まで広まりました。外で食事をしていると、後ろの席の知らない人が坪谷さんの話をしていることもあったそうです。

仕事は多忙を極め、最も多いときは20棟以上を同時進行。

「毎日が締め切りで、じっくり図面に向き合う時間もなく、四方八方から100本ノックが飛んでくる感じでした。大工さんからは催促が来るし、建主さんは事務所を直接訪ねてくる。人を待たせるプレッシャーは本当につらいものでした」と、坪谷さんは当時を振り返ります。

そして今、大槌町の建物の復興はほぼ完了したといいますが、坪谷さんはこの町を離れることはないと断言します。「大槌を拠点に東北全域に仕事を広げていければと思っています」。

流されるようにこの町にやってきた坪谷さん。「あっという間の8年間。これまでの人生で最も濃密な時間でした」と語ります。横浜と行ったり来たりする坪谷さんの生活は、当分このまま続きそうです。

一級建築士事務所 TsuboYa
撮影/伊藤美香子
※情報は「住まいの設計2019年8月号」掲載時のものです。

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